大学入試センター試験の国語の平均点がかなり悪かったようで。
それは、出題された小林秀雄さんの文章が鍵を握っていたのではないか、というもの。
本来は評論文が出題される枠で、随筆的要素を持つ小林秀雄さんの文章が使用されたことで、いわゆる受験テクニックが通用しなかったのではないか、ということでしょうか?!
私の受験勉強時代にも小林秀雄さんの文章はありました。掴みどころのない難しい文章だったという記憶があります。
私はもともと受験科目のなかでは国語が一番苦手だったので、とくに覚えていますね。
偏差値で言うと40点くらいのときもありましたね、あー、恥ずかしい。
でも、今こうして何の問題もなく社会生活を送っています。
新聞も、小説も、おそらくほかの人が感じると同じくらいは読解していると思います。
つまりは、大学受験の国語なんて、その程度ではあるのですが、もし、受験用に受験生の国語力が牽引されているとしたら、ちょっと問題があるような気もします。
出来の悪かった私が言うのもなんですが、国語力って、要するに受信力だと思うんですよ。感受性とか、理解力とか。
でも、国語って、数学と違い答えは1つではないですよね。
国語の問題の解答を他者に押し付けて良いものなのか、という疑問は、私の中で未だ解決していません。
画一的な感受性や理解力の『標準』を『正解』とする教育は、結果的に適応力のない人間を作っているのではないでしょうか。
最近心の問題を抱えてしまう人が多いのはこういうところにも原因があるのではないでしょうか。
極端なことを言えば、私は今では国語ができなかったことを誇りにしています。
言い換えれば、オンリーワンの受信力を持っていたのではないかと思えるからです。
世界に一つだけの花の精神ですね。